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大阪高等裁判所 昭和40年(ネ)953号 判決 1966年9月26日

控訴人 藤林清司

被控訴人 株式会社富士銀行

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し金七一八、八〇〇円及びこれに対する昭和三五年一〇月二〇日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決並びに右第二項につき仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張並びに証拠の提出、援用、認否は、控訴代理人において、

「一、控訴人は被控訴人主張のような免責特約を締結したことはない。すなわち、被控訴人の主張によると控訴人、被控訴人間の当座勘定取引契約において「控訴人提出の印影と手形に押捺された印影とが符合すると被控訴人が認めて手形の支払をなした場合には被控訴人は免責される」旨特約がなされたというにあるが、右特約の趣旨は右の如きものではない。尤も、本件当座勘定取引約定書(乙第一号証)第八条には被控訴人主張のとおりの契約文言が存するが右条文は文言どおりを契約内容とするという意思を当事者においてもたぬ所謂例文に過ぎないものである。

二、右特約の内容は契約の解釈上、(イ)被控訴人が偽造手形の支払をした場合免責されるのは控訴人が届出している印影と客観的に符合する印影が当該手形に押捺されている場合に限る旨定めたものと解すべきである。かく解することは、当事者の衡平に合し手形取引の信用を確保するものである。(ロ)仮に右主張が容れられないならば次のとおり解すべきである。すなわち、被控訴人において社会通念上堅実な事務処理をなすところと信頼されている銀行として期待されている程度の注意を尽してなおその相違が発見できないほど酷似した印影が手形に押捺されていた場合で、且つ実際に右の注意を尽して届出の印影と照合し(照合の方法は少くとも重ね合せの方法をとるべきである)、符合していると判断して支払つた場合にのみ被控訴人は免責されるものである。しかして、右免責要件の立証責任は被控訴人にあることは免責約款の性質上言うまでもないが、控訴人としては本件の印影は右の程度には類似せず、且つ被控訴人は右に述べた注意を尽さなかつたものと主張するものである。

三、振出日の記載のない手形の支払を有効とする事実たる商慣習が存在する、との被控訴人の主張を争う。法律が振出日の記載を手形要件とする趣旨は、証券の信用を確保(例えば、一般の契約証書においても作成の年月日が空白なものは信頼されぬ)するほか、手形行為(能力)の瑕疵の有無判断につき一つの基準としようとするものであつて、無視または軽視することは許されない。

仮に被控訴人主張の如き商慣習が存しても手形法に反するもので何ら意味はない。

四、なお、甲第三号証(上田弘証人調書写)と、同第五号証(鑑定書)中の比較顕微鏡写真について敷衍すると、右はいずれも訴外米岡弘泰が控訴人を相手方として本件偽造手形に用いられたものと同じ印鑑を用いて作成された控訴人振出名義の偽造約束手形に基き手形金の支払いを求めた京都地方裁判所昭和三六年(レ)第五五号約束手形金請求控訴事件(この事件は昭和三七年一二月米岡敗訴に終つた)の記録が原本となつているものであるが、(イ)甲第三号証は主として本件における原審証人上田弘の証言を弾劾するものであり、(ロ)同第五号証中の比較顕微鏡写真は控訴人が本件当座勘定取引契約に基き、被控訴人に届出た印影と同じもの(小さな方)と、本件偽造手形に用いられた印影と同じもの(大きな方)との相違を明らかにするものである。両者の相違は甲第二号証(控訴人の被控訴人への届出印影)と同第一号証の一ないし五(本件手形)を比較しても明らかとなるが、ただ甲第一号証の一ないし五の写しでは黒色になつており心理的に実物より小さく見えることに留意すべきである。」

と陳述し、<立証省略>

被控訴代理人において、

「一、本件免責特約は「被控訴人が手形小切手の印影を控訴人届出の印鑑又は従前の手形小切手に使用の印影と符合すると認めて支払つたときはその支払は控訴人に対し効力を生じ支払による損害について免責を受ける」(乙第一号証参照)という内容のもので、被控訴人が印鑑照合をした結果間違いないと認めて支払つたときはたとえその印鑑が届出の印鑑と異り偽造のものであつてもその損害は控訴人の負担とする意味である。

右同趣旨の免責条項は被控訴人銀行に限らず殆んどすべての銀行が当座勘定取引契約書に設けており、その慣行は相当古くから銀行界において行われている。このような免責条項が設けられている理由は、銀行はその営業の性質上無数の手形を取扱うのみならず、その取扱は簡易迅速でなければならないという要請があるから、手形の真偽の実質的調査義務まで課せられるとすれば銀行業務の遂行は著しく阻害され、経済界の期待する迅速な手形決済の要求に応えることが出来ない上、手形の偽造については届出印鑑を第三者に予託したりその他預金者側の不注意のため起ることが大部分であること等の点にある。しかして、これらの慣行からみると、手形に押捺せる印影が届出印鑑に類似し、その真偽が容易に判明しえないときは銀行においてその責に任じない旨の事実たる商慣習が存在するのである。本件免責特約も以上のような慣習の趣旨に則つたものにほかならない。

二、本件手形の印影照合につき被控訴人には何ら過失はない。被控訴人としては十分注意をしたが届出印鑑と酷似していたため見分けることができず右手形の支払をしたのである。尤も、被控訴人がとつた照合方法は届出印鑑と手形上の印影とを肉眼で見比べて照合する所謂平面照合によつたもので(現実に印鑑照合した被控訴人銀行の係員は原判決末尾添付目録(三)の手形については上田弘であり、その他の手形四通については永田憲治である)、特に拡大鏡等の機械を使用して照合していないが、拡大鏡で調査することは前述の如く迅速性を要求される銀行業務の性質上不可能であり現に被控訴人に限らず他の殆んどすべての銀行は平面照合方法によつており、事故は殆んど生じていないのである。また、振出人も一々拡大鏡により印鑑照合されることを期待していないし肉眼で照合されるものと考えているのが一般である。かかる点から銀行業界においては平面照合が慣行となつているのである。

三、仮に被控訴人に過失があつたとしても軽微な過失であり当然前記免責約款が適用されるものである。免責特約は銀行取引の経済的需要に応じ、既述の趣旨に即して合理的な範囲で銀行の責任を免除するものである。従つて銀行が故意又は重大な過失によつて支払つた場合は別論であるが控訴人主張の如く銀行に過失がなかつたときのみに適用されるものではない。

四、手形法では振出日の記載を所謂手形要件としているが、確定日払の手形については振出日を記載する必要性に乏しいことは原判決理由説示のとおりであつて振出日に関する限り強行規定でない。仮に然らずとするも振出日の記載のない手形の支払を有効とする事実たる商慣習が存在する。即ち、近来資金難又は月賦制度の発達等の理由から満期を振出の日より相当長期間後にする手形が多数現われ、このような場合信用上振出日を記載しないのが一般である。右のような経済的要請から被控訴人銀行に限らず他の銀行においても支払のために呈示される手形の半数以上が振出日白地の手形となっているのが実情で、各銀行はこれを振出日白地のまま支払つているのが慣行になつている。もしも厳格に振出日の記載が手形要件であると解し一々その支払を拒否するときは振出人の意思に反するのみか、我が国の経済界が麻痺するのは明らかである。」

と陳述し、<立証省略>………ほか、

原判決事実摘示と同一(但し、原判決五枚目裏五行目に、「(一)の特約事実は認めるが、」とある部分を「原告からあらかじめ届出の印影と手形使用の印影とが符合する場合に、その手形金の支払を被告がなした場合には被告は免責される旨の特約を結んだことはあるが、原告主張の如き趣旨の特約を結んだことはなく、また」と、同六枚目表六行目の「証人烏山敏」とあるを「証人鳥山敏」と、同八行目から九行目にかけ、「同第四号証の一は成立を認める、同号証の二は」とある部分を「同第四号証は」と、同一一行目に、「同第四号証の一、同号証の二(調書の写)」とある部分を「同第四号証(調書の写)」とそれぞれ訂正する。)であるからここにこれを引用する。

理由

第一、主位的請求について。

控訴人は主位的請求として、被控訴人が控訴人との間で締結した当座勘定取引契約に違反して、(イ)偽造にして且つ(ロ)一部手形要件を欠く控訴人振出名義の約束手形の支払いをなし、控訴人の当座預金を減少せしめよつて同額の損害を被らせたものとしてその賠償を請求するのでその当否について判断する。

一、控訴人が昭和三五年四月七日被控訴人との間で当座勘定取引契約を締結し、控訴人振出の手形を控訴人の計算において控訴人の被控訴人銀行東九条支店に対する当座預金から支払うことを委託し、被控訴人はあらかじめ控訴人堤出の印影と手形上の印影とを照合し両者符合する場合に支払担当者として控訴人のため該手形の支払をなす義務を負担することとなつたこと、被控訴人銀行東九条支店が右契約に基いて控訴人振出名義にかかる原判決添付目録記載の約束手形五通(額面合計金七一八、八〇〇円、満期日昭和三五年九月一〇日ないし同年一〇月二〇日。以下本件手形と称する)につき各満期日に控訴人の当座預金からその支払いをなしたこと、及び右手形のうち目録(一)、(四)、(三)のもの三通については振出日の記載がないことは当事者間に争いがなく、原審証人鳥山敏の証言と原審における控訴本人尋問の結果によれば、右約束手形五通はいずれも控訴人の義母が控訴人の印章を偽造しこれを押捺して作成振出した偽造手形であることを認めることができ、他に右認定を左右すべき証拠はない。

二、控訴人は被控訴人に本件手形上の印影照合につき、支払担当者(受任者)としての注意義務違反があつたと主張するのでまずこの点について考えるに、

銀行が届出印鑑と相違する印影の手形、小切手の支払をなすことは債務の本旨に従つた委任事務の処理と言えないことは勿論であるから、これによつて支払委託者に損害を被らしめたときは、善良な管理者の注意を怠らなかつたことを証明しない限り損害賠償責任を免れない(民法第六四四条参照)。しかしてこの場合、銀行に要求される注意義務の程度は、印鑑照合事務に習熟している銀行員が通常用いる注意を標準として決すべきものと考える。

ところで被控訴人は、控訴人より被控訴人に差入れている取引約定書(乙第一号証)には「手形小切手の印影で、届出の印鑑と符合すると認めて支払をなした上は、これによつて生ずる損害につき銀行は一切その責に任じない」との旨の免責約款が存在する旨主張し、右約定書に右文言が記載されている点は当事者間に争がないので右約款の趣旨について考えるに、右約款の文言はあたかも銀行において符合すると認めて支払をなした場合には常に免責されるかのように解せられる表現になつているが、銀行の不注意によつて符合すると認めたことが明らかなような場合でもなおかつ免責される趣旨であるとまでは被控訴人も主張しているものでないことはその主張の全趣旨によつて明らかであり、弁論の全趣旨により成立を認める乙第三号証の一ないし三、成立に争のない乙第六号証、原審証人立川秀夫、同馬木鄰蔵、同佐藤武士、当審証人興地正純の証言を総合すると、都市銀行においては殆んど例外なく、表現に多少の相違こそあれ前示被控訴銀行と同旨の免責約款を設け、昭和三八年四月頃以降は全国の銀行において統一形式の規定を設けているが、右約款の趣旨はいずれも手形小切手の印影が届出印鑑と酷似していて銀行員の通常の注意をもつてしてはその判別が困難であるような場合に照合の結果符合すると認めて支払をなしたときは銀行は免責されるというものであつて、銀行が符合すると認めて支払をなしたときは常に免責されるというが如き銀行の恣意を認めたものではないこと、しかして、銀行が特に右のような免責約款を設けるに至つた理由は、都市銀行においては毎日相当多数の手形、小切手を取扱い、しかもその処理は限られた短時間内に(京都市内の銀行においては通常手形、小切手が手形交換所から銀行に廻つてくる正午すぎから午後三時頃までの間)、迅速になされなければならずまた手形小切手決済事務の迅速処理は取引界の絶対的要請でもある関係上、すべての手形、小切手につき一々時間をかけ綿密、入念な印影の照合を行うことは実際問題として実行不可能なため、通常届出の印鑑票と手形小切手を平面に並べて肉眼で両印影を比較照合するいわゆる平面照合の方法をとつているが、始終廻つてくる顧客の手形、小切手でその印影が担当係員の脳裡に記憶されているものについては現実の照合を行わずいわゆる記憶による照合を行つており、平面照合以上の入念な方法例へば重ね合せて照合する方法による照合等は特別の場合のほか行つておらず、拡大鏡、顕微鏡等を備付けて科学的方法による照合を行つている銀行の如きは殆んどないこと、そこで手形、小切手の印影と届出印鑑とが酷似し、右通常行つている照合方法によつてはその相違を発見することが困難であるような場合に対処し、かかる場合には担当係員に特に不注意がある場合のほか、銀行は免責されるものである旨を明かにしたものであることを認めることができ、右認定に反する証拠はない。そうすると右免責約款を設けた狙いは結局印影の相違につき特に疑がある場合のほか、銀行は右通常に行つている印影照合以上の綿密、入念な照合方法をとらなくても注意義務違反の責任は問われないと言う点において、本来の厳格な注意義務の軽減、緩和をはかるところにあるものと解せられる。しかして銀行側の手形、小切手決済事務処理の簡易迅速性の要請と、支払委託者側の利害とを比較考量するときは、前認定の如き趣旨の免責約款をもつて銀行が不合理な理由により恣意的に設けた、支払委託者の利益を著しく害する不当のものと認めることはできないから、有効であると解するのが相当で、銀行は右約款を承認して支払委託をした者に対しては届出印鑑と相違する印影の手形、小切手の支払をなし、支払委託者に損害を与えた場合においても、印影の酷似性と、普通の注意、方法をもつて印影の照合を行つたことを証明することにより免責されるものと解するのが相当である。ただしいわゆる記憶による照合の方法をとつた場合には現実の照合を省略しているのであるから銀行の危険負担においてこれを行つたものと認めるのが相当で、この場合にはたとえ現実の照合を行つたとしても結果は同一であつたと認められる場合のほか免責されないものと解するのが相当である。

控訴人は乙第一号証約定書第八条の免責条項は例文にすぎず、届出印鑑と手形上の印影が、客観的に符合しない以上被控訴人は常に損害賠償責任を免れない旨主張するけれども、独自の見解で採用し得ない。

そこで進んで本件届出印鑑と本件手形上の印影との酷似状態、被控訴銀行の担当係員が右印影照合につきいかなる注意と方法を用いたかについて検討する。

(一)  控訴人届出の印鑑(乙第五号証、以下真印という)と本件手形上の控訴人名下の印影(以下偽印という)との比較対照の結果に成立に争のない甲第三、五号証、乙第四号証、原審証人上田弘の証言を総合すると、真印と偽印とは共に円形の印影で略同一の大いさ、線の太さの円内に篆書体をもつて<図略>と表わされ、字の太さ、字画も略同一で極めて酷似し、一見同一印影のように見受けられ、京都市南区役所においても、昭和三五年七月から九月までの間四回にわたり本件手形に押捺されているものと同一印鑑と認められる印鑑につき、同区役所届出の印鑑(乙第五号証の印鑑と同一のものと認められる)と照合の上真正と認めて印鑑証明書を発行した程であるが、専門家による顕微鏡等を用いた綿密な鑑定結果によれば真印は円の直経が縦約一四、四ミリ、横約一四、三ミリであるに対し、偽印は円の直経が縦約一五ミリ横約一四、八ミリで両印影の間には大きさに微差があり、また偽印の外周縁の上部は線が多少二重になり太く感じられるほか、字画においても「清」の字の「青」部と「司」の字の形状が多少相違していることが認められ、なお肉眼によつても事後審査的観察眼をもつて仔細に点検すれば「林」の字のつくりの右下方部分(<図略>この部分)が偽印の方は下へ殆んどのびていないが、真印の方は下へほんの少しのびているように看取されること、しかして両印影を単に平面的に並べて肉眼で比較照合したのみでは容易に両印影の相違を発見し難いが、本件(五)の手形の支払期日の数日後である昭和三五年一〇月二七日頃控訴人が被控訴人から預金不足の連絡を受け被控訴銀行東九条支店に至り預金係長上田弘に面接し、本件手形を振出した覚えがない旨申出でた際、同人において印影の符合の有無を確めるため、乙第五号証届出印鑑を本件手形上の印影の上に重ねて入念に調べたところ両印影の円周が僅かながら喰い違つていたので同人も本件手形上の印影の真偽につき疑念を抱くに至つたことを認めることができ、叙上の認定に反する証拠はない。

(二)  次に前掲証人上田弘、佐藤武士、当審証人永田憲治の各証言に、本件手形上に押捺されている被控訴銀行担当係員の取扱い印によると、被控訴銀行においては原則として平面照合の方法によつて印影照合を行い、そのため従来間違が起つた事例は殆んどないこと、被控訴銀行東九条支店においては昭和三五年九、一〇月当時一日平均二〇〇ないし三〇〇枚月末とか決済日などには一日五〇〇枚位の手形小切手が廻つてきており、これを当座預金係の永田憲治(当時二一才)が一人で毎日手形交換所から手形、小切手が廻つてくる午後零時半頃から午後三時頃までの間に平面照合の方法によつて印影の照合をなした上処理し、多忙のときは預金係長の上田弘も手伝つていたこと、本件手形のうち(一)(二)(四)(五)の四通は右永田が、(三)の一通は右上田がそれぞれその各支払期日に平面照合の方法によつて控訴人の届出印鑑と本件手形上の印影とを現実に比較照合の結果符合しているものと認めて控訴人の当座預金から支払をなしたものであること、右永田も上田もいずれも被控訴銀行支店勤務となつてから日は浅かつたが、前任地においても印鑑照合事務に携つた経験を有し相当習熟しており、本件手形印影の照合に当つても通常の注意を用い、粗雑な取扱いをしたものではなかつたが、手形の印影が前示のように届出印鑑に非常に酷似していたので、その相違していることを発見し得なかつたものであることを認めることができ、右認定に反する証拠はない。

(三)  以上認定の事実に、印影は押捺条件の相違によつて必らずしも同一印影は生じないこと、すなわち押印台がゴム、木、ガラスなどの相違、押捺力、肉壺の位置、宿肉、着肉状態、紙質等の状態、紙の含湿による伸縮等によつても異るから一小部分の相違によつて直ちに異印とは断定し難い点(この点は前掲甲第五号証によつて認められる)を考え合せると、前示永田憲治、上田弘が届出印鑑と本件手形の印影を照合して両者が符合すると認めたことにつき特に不注意はなかつたものと認めるのが相当で、平面照合に止らずさらに慎重に両印影を重ね合せて喰い違いながいかどうかを確めるほか、一字一字の字画につき入念に点検しなかつたとしても両印影の酷似状態が前認定の如くである以上尽すべき注意を尽さなかつたものと認めることはできない。そうすると結局被控訴人は通常の注意をもつて印影の照合をなすもなおかつ相違を発見することができなかつたものと認めなければならないから、被控訴人に印影照合につき支払担当者としての注意義務に欠くるところがあつたとなす控訴人の主張は採用し得ない。

三、そこで次に被控訴人が振出日の記載を欠く本件(一)、(四)、(五)の手形の支払をなしたことをもつて受任義務違反であるとなす控訴人の主張について判断するに、手形の振出日の記載は手形の有効要件であるから(手形法第二条、第七六条)たとえ確定日払の手形に振出日を記載することは実質上意味がなく、また振出日の記載を欠く手形が取引界において多数流通しているとしてもこれをもつて有効な完成手形と認めることはできない。従つてかかる手形の支払請求に対しては手形債務者において支払を拒み得ること勿論であるが、このことと銀行が支払担当者として振出日の記載を欠く手形の支払をなすことが支払委託者に対する義務違反となるかどうかと言うこととは別個の問題である。前掲馬木、立川、興地、佐藤、上田、永田各証人の証言を総合すると、現在においては勿論本件手形が振出された昭和三五年当時においても、諸種の事情から振出日白地の手形が相当多数流通し、取引界においては事実上完成手形と同一にみなして取扱われ、銀行側においても実状に則し特別の場合を除き殆んど振出日の記載を補充せしめない儘で支払の処理をなし、それが殆んど慣行となり常識となつている実情であり委託者側においても振出日の記載の有無は殆んど問題とせず、振出日の記載のない手形の支払に対し委託者より銀行に文句を言つてきた事例は殆んど皆無であることを認めることができ、右上田、永田両証人の証言中振出日の記載のない手形についてはその都度委託者に連絡していた旨の供述部分は措信し難い。しかして本件当座勘定取引契約の締結に当り控訴人が振出日の記載のない手形の支払を拒絶するよう特に申出でたものと認むべき証拠なく、却つて原審における控訴本人尋問の結果によれば控訴人は本件偽造手形による被害を覚知後被控訴銀行東九条支店に事後策を交渉した際にも特にこの点は問題としていなかつたことが認められるから、被控訴人において振出日の記載のない手形の支払をなすことについては別段異存はなかつたものと認められる。

そうすると被控訴人が振出日の記載のない本件(一)(四)(五)の手形につき、控訴人に特に問合せることもなく控訴人の当座預金より支払をなしたとしても、被控訴人に支払担当者としての義務違反があつたものと認めることはできない。

以上のほかに、被控訴人が本件偽造手形により控訴人の当座預金から支払をなしたことにつき、被控訴人に支払担当者としての義務違反があつたことを認めるに足る証拠はない。そうすると本件手形の支払につき被控訴人に受任義務違反が認められない以上、債務不履行を理由とする本件損害賠償請求(主位的請求)は理由がなく棄却を免れない。

第二、予備的請求について。

控訴人の預金返還の予備的請求は本件手形の支払が無効であることを前提とするものであるところ、前認定の事実によれば被控訴人が本件手形金を控訴人の当座預金より支払つたことは有効と認められるからこれにより控訴人の預金債権はその限度において消滅したものといわなければならない。

そうすると本件手形金額相当の預金がなお残存しているとしてその支払を求める請求もまた理由がないこと明らかであるから棄却を免れない。

第三、結論

よつてこれと同旨の原判決は相当で本件控訴は理由がないから、棄却すべきものと認め訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 岡垣久晃 奥村正策 畑郁夫)

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